考え方のクセ⑦「公正世界の神話」について
「因果応報」という言葉があります。
人は良い行いをすれば良い報いがあり、反対に悪いことをすれば、かならず悪い報いがあるというものです。
これまで、私たちの身の回りに良いことが起こった時に「あの時の苦労は無駄じゃなかったんだ」と嚙み締め、
憎たらしい人に悪い出来事が降りかかった時に「当然の報いを受けているんだ」と思うことが
ありませんでしたか?
良い出来事や悪い出来事の背景には、必ず納得のいく公平で公正な理由がある。
そんな世界のことを「公正世界」と呼び、世界(人生)というのはそういう風にできているんだと
信じることが「公正世界の信念」です。
「公正世界の信念」は、幼少期の教育の中でさながら「神話」のように、折に触れて大人から伝えられます。
「ちゃんと食べなきゃ大きくならないよ」「良い子にしていたらサンタさんが来てくれるよ」
「頑張ったことは決して無駄にはならないから」など、本質的なメッセージは違えど、いずれも、
自分の行いの結果が、必ず良い未来、悪い未来につながることをどこかで示唆しています。
このような教えは決して悪いわけではなく、子どもが必要な努力や我慢ができるように、
マナーを身につけられるように、人生を自分の力で乗り越えられるようになど、
教育的な意味合いや純粋な願いを前提にして教えられるものです。
しかし、実際の世界(人生)は決して、「公正世界」ではありません。
努力をしても無駄になることもあれば、清く正しく生きても誰にも顧みられないこともあります。
反対にどんなに悪いことをしたとしても、後に至上の幸福を享受することもありえます。
そのようなことが当たり前に起こる、不公平で、理不尽に思える面が多分にある世界です。
自分の身に不幸が訪れた時に、人はその問題を解決し今後の身を守るために、
出来事が起こった「理由(原因)」を考えようとします。
その時、自分の心に現れる「あの時どうしてあんな判断をしてしまったのだろう」
「もっと慎重に行動するべきだった」「あの人の助言を聞いておけばよかった」という自責の念は、
一見すると妥当な反省のように思えるかもしれません。しかし実際には「公正世界の神話」に則った
考えに過ぎない場合もあるのです。
実際には、自分の身に起こってしまった不幸な出来事に、筋の通った理由や原因はなく、
自分の過去の行いとは全く無関係に、その辛い出来事は起こったのかもしれません。
そのように考えることの方が、あるいは恐いと感じるでしょう。
世界が公正でないことを認めることは、世界が実は自分のコントロールの外にあり、
「どうにもできないことがある」ことを認めることになるからです。もしそれを認めたとしても、
出来事が起こってしまった辛さは変わりませんが、少なくとも、これまでのように自分の過去の行いを悔いて、
自分の無能さ、甘さ、弱さなどを責める日々を送り続ける必要は無くなるかもしれません。
参考文献:P.A,リーシック他 2019 トラウマへの認知処理療法 治療者のための包括手引き 創元社