大人の発達障害
発達障害。
最近、よく聞かれる言葉です。
皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
そして、こんな話もよく聞かれます。
・最近仕事でミスばかり。注意散漫でいろいろ忘れてしまうことも多い。まさか自分は
発達障害じゃないか?
・人と話すのが苦手だ。どうも空気が読めていない気がする。…自分はまさか発達障害?
・こんなに仕事を教えてるのに全然伝わらない。この人はちょっとほかの人とは変わってるし、
発達障害なんじゃないか?
発達障害は、従来は自閉症のお子さんなど、小さい頃に特徴を指摘されることが多いものでした。
現在もお子さんの頃に指摘される例は多いのですが、この概念の認知が広まってきた結果、
大人になってから上記のような話が出てくる場合があるようです。
このように言葉が広まってきている「発達障害」ですが、そもそも発達障害にはどんな特徴が
あるのでしょうか?
発達障害と一口に言っても、その中にはいろいろなタイプの方が含まれています。
注意がそれやすい、集中がうまくできない、ということが特徴のタイプの方もいれば
相手の言葉の意図するところをキャッチしづらく、言葉通りに受け取ってしまって
コミュニケーションがスムーズに進みづらいといったことが特徴のタイプの方もいらっしゃいます。
様々なタイプの発達障害の方に共通する特徴として、得意不得意の差が大きい、ということが
挙げられるでしょう。
ですから、得意なことと仕事の内容がマッチすると、その方の持っている力をかなり
発揮することができます。
しかしその反面、不得意なところと重なってしまうと力が発揮できないだけでなく、
物事の遂行に支障をきたしてしまうこともあるのです。
得意不得意はどんな方にもありますが、ちょっと苦手、というレベルではなく、遂行できない、
支障を来して実害が出てしまう、という状況になってしまうことも多くあります。
得意不得意の特徴はインプットの面にもあらわれます。
例えば、口頭で簡単に説明してあとは周りの方のやり方を見たり試行錯誤したりして
できるようになっていく・・・はずがそれがうまくいかない。
状況を目で見て推測することが苦手な方は、例えば言葉できちんと説明されないと理解できない、
図式化したマニュアルがないと頭に入りにくいなど、仕事を指示したり教えたりする段階でも
このようなことを考慮する必要性が出てくることが多いのです。
先ほど出した例のように、教える側のやり方と教わる側の理解の仕方があわないことで
お互いに一生懸命やっているのに伝わらない、わからないというのはお互いにとって
とてもつらいことです。
当事者の方であれば自分の特徴を知り周りに伝えること、また、関わる側の方であれば
その相手の特徴と付き合い方を知っていくことで関わりが少しスムーズになるかもしれません。
実は、発達障害の方は仮にそうだという判断があったとしてもそこで終わりではなく、
そこからどうその特徴とつきあっていくのかを考えていくことの方がとても重要です。
そのことをテーマにして,カウンセリングを行うことも多くあります。
もし、自分自身でお困りの方、また、周りの方で接し方に難しさを感じる方がいらっしゃれば
このような方法もあるのだと少し頭の片隅に置いてみてくださいね。
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怒ることはいけないこと?
最近、“笑顔を判定するAI”というものがあって、それを採用活動に活かそうとしているところがある
というニュースがありました。そのAIは取り繕った笑顔を見抜けるのだとか・・・。
ユニークな試みであると同時に、今の社会の特徴のようなものがとても反映されているなと感じました。
現代の仕事では一人だけで黙々と取り組んで自己完結するという業務よりも、チームで仕事をすると
いうことが多くなり、同僚内でのコミュニケーションや連携、チームワークがとても重視される傾向が
あるようです。
円滑なコミュニケーションには、笑顔や和やかな雰囲気づくりなどはとても有効に働くでしょう。
(そちらのニュースでは保育園を経営されている会社での採用ということだったので、お子さんへの
良い影響があるということも考慮に入れているようでした)
コミュニケーションが重視される一方で、特に若い方の間ではネガティブな感情を表出することはあまり
良くないことというイメージも強くなっているような印象があります。
例えば、落ち込みや怒りなどです。
何かを相手に言われてあからさまに落ち込むとかムッとした態度で反論するということはせず、
気にしていない態度を見せるとか言うのだとしても穏やかに指摘するという方が望ましいと
思われる傾向があるようです。
もちろんネガティブな感情は心地よくはないので、出来れば多くの方は感じたくはないでしょうし、
それを表出しなくてすむのであればその方がよいでしょう。
しかし、それ以前に「そう感じることがいけない」「こんなことで怒っちゃ(落ち込んじゃ)ダメだ」と
感情自体を否定しがちな方もいらっしゃるのではないでしょうか
感情は本来直接的にはコントロールがしにくいものです。
それこそ、自然と、勝手に出てきてしまうのです。
それをなかったことにしようとしたり無理やりに抑え込んだりしようとすると、とても心に
負担がかかります。
もちろん、だからといって、ところかまわず怒り散らすほうがよいとか、いつでもどこでも
落ち込む姿をみせたらよいとか、そういったことをおすすめしているわけではありませんし、
現実的にはそのようなことは不可能でしょう。
むしろ社会で生活していると、本当は落ち込んでいるけれども会社の部下の前ではそんな姿を見せる
わけにはいかないだとか、本当は怒っているけれども立場上言えないだとか、そんなことの連続では
ないでしょうか。
そんなとき私たちは頑張って取り繕って平静を装ったり、笑顔を保ったりするわけです。
このようなことを職場や業務上で行うことを“感情労働”と呼んだりします。
社会で生活をしていると感情労働せざるを得ないのですが、でもそれを続け過ぎると心が疲弊します。
また「本当はこう思っているけれどここでは言えないから笑顔でやり過ごそう」のように、自分で表に
出している感情と心の中の本当の感情が異なっていると自覚している場合、それはそれはとても
負担でしょう。
しかし本当は怒っているのに(落ち込んでいるのに)そこに自分では気づいておらず(あるいは
気付かないようにして)笑顔でふるまってしまっている場合は、その時は一見楽に感じられても、
それがあまりに長く続いてしまったとき、自覚した上で取り繕う以上の負担や反動があることが
多いように感じられます。
いつもニコニコ、嫌な事があっても落ち込まず、怒らず、常にポジティブなんてできたら
素敵ですが、なかなかそうもいきません。また、そうであるべきだと考えてしまうのも
とても負担ですね。
ですから、せめて感じた感情そのものは否定せず、自分でわかっていてあげるという機会が
もてると良いかもしれません。
Lear More私を責める私
人から責められた時、多くの方は大なり小なり嫌な気持ちになったり、つらい気持ちになったりするでしょう。
また、責められた内容について「ああそうか」と素直に納得して次から気を付けようと思えることもあれば、
「そんなつもりではなかった」とか「そんなことを言われるなんて不当だ」「納得できない」
と思うこともあるでしょう。
例え納得できなくても「次から気を付けよう」あるいは「自分では納得できないけど、考え方の違いだから
気にしないでおこう」などというように自分の中でおさめることができれば、長く後を引くことはあまりありません。
しかし、時々、いつまでもいつまでも責められたことが気になってしまうときがあるかもしれませんね。
それは、なぜでしょう?
その背景にはいろいろな理由が考えられますが、その一つに、実は自分を責めた人と同意見の自分が、あるいは
自分を責めたいもう一人の自分がいて自分自身のことを内側から責めている・・・ということがあったりします。
実は一番つらいのは、そのように自分で自分を責めている時です。
人から責められても、その人から離れれば一旦はそこから逃れることができます。
でも自分が自分を責める時、私たちには逃げ場がありません。
社会一般的にこうした方が良いとされていること、親からこうしなさいと言われてきたこと、
学校で教わってきたことなど、私たちの中にはこれまでの生活の中で学んできた「こうすべきこと」
「こうあるべきこと」がたくさんつまっています。
気にしなくていいと思っているつもりでも「こうすべき」と思っている自分が自分の中のどこかにいると
他の誰かに指摘をされたときにその自分が顔を出すのです。
たとえば「これができていないと責められた」と感じる時、自分自身でも同様に「それができていないと
本当はいけない」「できていない自分はダメだ」と思っているかもしれません。
「こうでないといけない」と責める自分がとても強い時には、たとえば相手にその意図がなかったとしても
ちょっとしたことで「責められている」と感じやすくなります。
あるいは誰にも何も言われなかったとしても、自分の言動をチェックして自分を責めてしまう場合もあるでしょう。
もし、今後誰かに責められているように感じ、それが頭から離れない時があったら「あの人が私を責めた」
ことだけではなく、自分の中にも「私を責める私」がいないかどうか目を向けてみてください。
これは以前の記事の体への気付きの話と同じですが、気付いただけでこんな自分がいたのかと楽になる
場合もあれば、それだけでは不十分なこともあります。けれど、やはりまずは気付くところからです。
もしよかったら試してみてくださいね。
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考え方のクセ③「読心術」
もし相手の考えていることが手に取るようにわかる魔法があれば、そんな力が
欲しいと思われるでしょうか。
読心術というのはそういう魔法の事ではなく考え方のクセの1つで、
「こんなことを考えているんじゃないか」「自分のことをこんな風に思っているんじゃないか」と
相手の考えていることを、そんなふうに考えるべき証拠があるわけでもないのに
ごくささいな手掛かりから勝手に推測してしまうことを言います。
例えば、友達とカフェやレストランで談笑している時、ふとした拍子にその友達が
ちらりと時計を確認するような仕草をするとします。
「あ、なにか時間が気になるのかな」と思うのはまだ自然でしょう。
そこからさらに
「自分の今の話がつまらなくて自分といるのが退屈だから早く帰りたいと思っているんだ」と
考えてしまうとしたら、それは読心術を使って相手の頭の中の考えを勝手に決めつけて
しまっているのかもしれません。
まれにこういった考えが当たっていることもあるかもしれませんが、ほとんどの場合は
考え過ぎであったり的外れな考えに陥ってしまっていたりするものです。
その他の考え方のクセと同じく、読心術を使ってしまっているかどうかは自分では
なかなかわかりにくいものです。
また、中には「自分でもそんな風に考える証拠がないのは分かっている。これが考え過ぎだって
気が付いている。だけどどうしてもそんな風に考えてしまうのを止められない」と苦しんでおられる
方もいるかもしれません。
基本的に相手の考えていることは分かりません。気になるのであれば聞くしかないわけですが、
聞いても本当のことを教えてくれるわけではありません。
本当のことを教えてくれていたとしても「でも心の底では実際はこう思っているんじゃないか」と
さらに読心術で疑うことさえできてしまいます。
だとしたら相手の考えていることを把握しようとする試みは一旦手放すしかないのかもしれません。
その上でどのように考えることができれば自分の心の健康のためには良いのか、という視点でその状況を
捉えなおしてみることができると良いですね。
認知行動療法を通してこのような考え方のクセに取り組んでみることは、人生をより豊かに心穏やかに
過ごすための役に立つでしょう。
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