カップル間の要求/撤退パターン
カップルや夫婦、パートナーとの関係がうまくいかない。
パートナーのせいで負担を強いられている、という悩みを持ってカウンセリングに来られる方がいます。
夫婦関係の問題は非常に古く、古代ローマの時代から夫婦喧嘩を守護する女神が居て、
古代ローマ人の夫婦は、お互いに不満が溜まってくると、二人で女神の祠に向かったと言います。
その女神の祠には「女神の前ではどちらか片方ずつしか口を開いてはならない」というルールがあったのだそうです。
しかしこれは、昔の人間を知るほのぼのとした逸話というよりは、それくらい古くからパートナー関係の維持は困難で、
人生の悩みの主題となり続けてきたことを示しているのでしょう。
最近の研究の結果としても、結婚一年目をピークにして、パートナー関係は歳を追うごとに、
残念ながら、基本的には悪化していくことがわかっています。
そこで近年、「カップル間の要求/撤退パターン」というパートナー関係のある悪循環に焦点を当てた
カウンセリングが注目されています。
カップル間の要求/撤退パターン
夫婦関係の研究では古くからよく知られた現象で、カップルの一方が他方に強く要求・批判し
もう一方がそこから守りに入ったり引き下がるというコミュニケーションのパターンのこと。
(三田村研究室 X @Mitamura_Lab より引用)
上の三田村研究室での一連のポストをお読みいただいた方が早いのですが、カップルが男女であった場合、
女性が要求側、男性が撤退側になることが多いことが、古くから確かめられてきたと言います
(それがどうしてなのかなど、こういったことが色々ポストされていて、学びになる上に
とても興味深いのでフォローおすすめ)。
いずれにせよ、このパターンが繰り返されていくと、次第に関係性が悪化していくという典型的な流れがあるようです。
さて、そこで関係性を改善していくために大切なのは、カップルの中でこのような構図ができていることは、
純粋にどちらか一方が「要求や批判ばかりで悪い」あるいは「逃げてばかりの態度が悪い」
ということではないと言うことです。
あくまで二人の関係性であって、そこに「どちらが悪い」は存在しないと言うことです。
全く異なる2つの態度ですがそこには1つの共通点があり、ある意味では二人で一緒に、その関係性を作っています。
その共通点とは、相手の表面的な感情に翻弄されていることです。
これまでの研究で分かってきていることは、カップルの関係性を改善していくときに、
どちらか一方だけが変化する、または「こういうルール作ってそれを守りましょう」、ということは
根本的な解決にはならず、お互いの内面、「本当はどういう気持ちがあったのか」ということをお互いに気が付き、
自然に相手への思いやりが浮かぶような関係性を構築することです。
お互いを見るときに、怒っているけどそれはどうしてだったのか、その背後にはどんな気持ちがあるのか。
黙っているけどその背後にはどんな気持ちがあるのか、そこに目を向けてみましょう。
「怒り」「無感情」とは全く違った気持ちが、そこにはあるのかもしれません。
Lear Moreどこに相談すればいいんだろう?
以前のブログで、ソーシャルサポートについての記事がありました。
誰かに相談すること、カウンセリングもソーシャルサポートの一つになるかと思いますが、
さて、いざ相談してみようと思ったものの、カウンセリングルームは何となく敷居が高い…、
カウンセリングルームが沢山あってどこがいいのか分からない…、そもそもどこに相談したらいいのか…
と迷われたという方もいらっしゃるのではないでしょうか?
そこで今回は、身近にいる専門家の相談先について一例をご紹介したいと思います。どうぞご参考までに。
<小学生・中学生・高校生>
・スクールカウンセラーに相談する
小学校・中学校・高校には、スクールカウンセラーが配置されています。臨床心理士・公認心理師の専門の資格を持った
カウンセラーが配置されていることが多く、無料で相談できます。
・まもろうよこころ 厚生労働省のサイトで自分にあった相談方法で相談する
電話での相談、LINEやオンラインチャットなどでの相談窓口等の情報がまとめられています。
LINEなどでも気軽に相談できます。
・・・・・保護者の方・・・・・・
スクールカウンセラーや教育相談所に相談する
お子さんについてのご心配や対応について保護者からの相談にも応じています。また、児童生徒向けに
いじめやハラスメント、DVについてのSOS窓口を開設しているところ多いです。
神奈川県立総合教育相談センター
横浜市立教育相談センター
町田市教育相談
小田原
<大学生>
・学生相談室で相談する
大学には、学生相談室という無料で相談できる場所があります。多くの学生相談室では、臨床心理士・公認心理師の
専門の資格を持ったカウンセラーがお話を伺っています。相談の秘密は守られます。
・まもろうよこころ 厚生労働省のサイト で自分にあった相談方法で相談する
電話での相談、LINEやオンラインチャットなどでの相談窓口等の情報がまとめられています。
・・・・・保護者の方・・・・・
・学生相談室で相談する
お子さんの対応について保護者からの相談に応じている学生相談室もあります。保護者も相談の対象となっているか、
詳しくは各大学の学生相談室のホームページ等をご確認ください。
<企業や団体などにお勤めの方>
・社内の相談室のカウンセラーや産業医に相談する
社内にメンタルヘルス関連の相談窓口を設けている企業も多くなってきています。
・健康保険組合の福利厚生サービスを利用して相談する
お勤めの企業や団体が、メンタルヘルスに関する福利厚生サービスを提供している場合があります。
・『臨床心理士に出会うには』で相談先を探す
日本臨床心理士会が運営する検索サイトです。エリア、相談内容、臨床心理士の性別など条件を入れて検索することができます。
こまち臨床心理オフィスでは、遠方の方でもオンラインカウンセリングをご案内可能ですが、対面で受けてみたいという方は、
こちらでお住いの地域にある相談先を検索してみるのも良いでしょう。
*精神科・心療内科に通院中の方でカウンセリングを希望する場合は、まずは主治医にご相談ください。
困った時に、1人で抱えずに相談していけるのも大事な力です。
羨望と嫉妬
世の中には、様々な形での心理的攻撃があふれています。
人が人を攻撃する心理とは、どのようなものなのでしょうか。
今回は、「羨望」と「嫉妬」の概念について紹介します。
ネット上の書き込みによる誹謗中傷のニュースを目にするたびに、気持ちが少し落ち込みます。
最近では、オリンピック選手に対する誹謗中傷の内容がネット上に多く書き込まれ問題となっています。
芸能人の不適切な言動へのバッシングも非常に強いものになっています。
正論を掲げて、その時に非があるように見える人を叩く時、人間の脳では快感を強く感じるそうです。
そういった快感や自己の優位性に浸る感覚は麻薬のように癖になるものかもしれません。
そして、人がそういった「その時に非があるように見える人を叩く」行動に駆られる背景には、
臨床心理学の概念の1つである「羨望」があるかもしれません。
「羨望」と「嫉妬」は似たような意味をもつと思われやすいですが、臨床心理学では違った意味をもつ言葉です。
「嫉妬」は三者関係の中で生じる妬みの感情です。例えば、AさんとBさんは友達ですが、Aさんばかりが
C先生に可愛がられていて、Bさんは「Aさんばっかりズルい、ムカつく」と思う場合です。
どうしてその気持ちが生じているのかが、比較的理解しやすいものです。
一方で、「羨望」とは、二者関係の中で生じる感情です。例えば、AさんとBさんは友達ですが、
Aさんはとびきり美人で性格が良いです。Bさんは内心、Aさんを妬み、憎む気持ちをもっています。
BさんはAさんと一緒にいるとモヤッとした気持ちになりますが、それが強い憎しみの感情だとは自覚していません。
そういった時に、Bさんは自覚が薄いまま、Aさんを攻撃するような言動を取ってしまいます。これが「羨望」です。
相手の中にある良いものを壊してやりたいという欲求を伴うのが「羨望」です。
「羨望」の厄介な点は、相手への妬み・憎しみの感情が自覚されないままに、相手への攻撃に駆られてしまうことが
あるということです。
自分の行動のコントロールが効かなくなるというのは、良いことではありませんよね。
思いがけず、相手を攻撃してしまう言動を取ってしまった時、自分の中に相手への「羨望」がないか、
自分の心に問いかけてみてもいいかもしれません。
Lear More平野啓一郎『本心』から考える「自分らしさ」~分人主義とカウンセリング~
『本心』の映画化が決定したそうです。
おそらく少し未来の話。主人公は20代後半の男性。ずっと2人で生きてきた唯一の肉親でありながら、
何も理由らしい理由を打ち明けないまま、いわゆる安楽死を選んだ母親。主人公は母親の本心を知ろうと
母の残した遺産を使って、生前の母親そっくりに振舞うことのできるAIを持った母親の姿そのままの
VRアバターを制作します。主人公の持っている生前の母親の情報を取り込んだAIが、さらに母親らしく
振舞うようになるためには「母親」と日常的に会話を重ねながら、「お母さんはそんなこと言わなかったよ」
というフレーズで、より母親らしい反応になるよう微調整を続けていきます。また、生前の母親と
親しかった人とも「会って話をしてもらえれば」より生前の母親に近づくのです。
物語はアバターとして”生き返った”『母親』を様々なきっかけとして、「母の本心は何だったのか」という
ミステリー的な要素と、唯一心から繋がっていると信じていた母親の無言の決断に対する主人公の葛藤
そして成長を通して進んでいきますが、背景として常に存在するのは、人間にとっての「自分らしさ」とは
一体何なのだろうという問いです。
作者の平野啓一郎は、以前から「分人主義」という心の捉え方のモデルを提唱しています。
「個人individual」と対比的に「分人dividual」と表現されるその考え方とは、「自分」というのは接する
他者・場所・時間の数だけ存在するのであって、場面や相手に寄らない一貫した、いわゆる「本当の自分」
などは存在せず、言うなれば場面と相手によって異なる自分それぞれ全てが「自分」なのだという考え方です。
要するに一本芯の通った「真の自分」なんていうものを持っている人はおらず、「自分」というのはもっと多面体、
多層構造ネットワーク的なものだよねということです。
この考え方はカウンセリングや心理療法の基本的な考えと同じです。
カウンセリングで言う「自分と向き合う」というのは、自分の心のどこかにある「本当の自分」を探して
見つけ出せということではありません。むしろ、迷い悩んだり苦しんだり、状況や人によってバラバラな
自分のあり様の一つひとつを否定しないで受け止めるという意味です。そうすることで、その時々で自分が
何を求めているかを捉えられるようになっていきます。
作者との対談で心理療法家の東畑開人(https://k-hirano.com/articles/hirano-tohata1)も言っていますが、
就職活動などでは「自分には何が向いているのか」「自分は何がしたいのか」などを問われ、途方に暮れる
学生が確かにいます。
しかしそのような問いは、そもそも自分の中に存在するものではなく、他者や環境と相互作用する中で、
後からまたはなんとなく立ち現れてくるような類のものかもしれません。けれどそのようにつかみどころの
無さが、まるで「自分が無い」ように感じられ、なおかつそれがとても良くないもののように思われると
答えの無い悩みの中に捉われてしまいます。
その意味で「分人」という考え方は、「自分の中で矛盾しても良い」という答えを提供し、その意味での
「そのままの自分」を受け入れる手助けをしてくれるかもしれません。
Lear More考え方のクセ⑦「公正世界の神話」について
「因果応報」という言葉があります。
人は良い行いをすれば良い報いがあり、反対に悪いことをすれば、かならず悪い報いがあるというものです。
これまで、私たちの身の回りに良いことが起こった時に「あの時の苦労は無駄じゃなかったんだ」と嚙み締め、
憎たらしい人に悪い出来事が降りかかった時に「当然の報いを受けているんだ」と思うことが
ありませんでしたか?
良い出来事や悪い出来事の背景には、必ず納得のいく公平で公正な理由がある。
そんな世界のことを「公正世界」と呼び、世界(人生)というのはそういう風にできているんだと
信じることが「公正世界の信念」です。
「公正世界の信念」は、幼少期の教育の中でさながら「神話」のように、折に触れて大人から伝えられます。
「ちゃんと食べなきゃ大きくならないよ」「良い子にしていたらサンタさんが来てくれるよ」
「頑張ったことは決して無駄にはならないから」など、本質的なメッセージは違えど、いずれも、
自分の行いの結果が、必ず良い未来、悪い未来につながることをどこかで示唆しています。
このような教えは決して悪いわけではなく、子どもが必要な努力や我慢ができるように、
マナーを身につけられるように、人生を自分の力で乗り越えられるようになど、
教育的な意味合いや純粋な願いを前提にして教えられるものです。
しかし、実際の世界(人生)は決して、「公正世界」ではありません。
努力をしても無駄になることもあれば、清く正しく生きても誰にも顧みられないこともあります。
反対にどんなに悪いことをしたとしても、後に至上の幸福を享受することもありえます。
そのようなことが当たり前に起こる、不公平で、理不尽に思える面が多分にある世界です。
自分の身に不幸が訪れた時に、人はその問題を解決し今後の身を守るために、
出来事が起こった「理由(原因)」を考えようとします。
その時、自分の心に現れる「あの時どうしてあんな判断をしてしまったのだろう」
「もっと慎重に行動するべきだった」「あの人の助言を聞いておけばよかった」という自責の念は、
一見すると妥当な反省のように思えるかもしれません。しかし実際には「公正世界の神話」に則った
考えに過ぎない場合もあるのです。
実際には、自分の身に起こってしまった不幸な出来事に、筋の通った理由や原因はなく、
自分の過去の行いとは全く無関係に、その辛い出来事は起こったのかもしれません。
そのように考えることの方が、あるいは恐いと感じるでしょう。
世界が公正でないことを認めることは、世界が実は自分のコントロールの外にあり、
「どうにもできないことがある」ことを認めることになるからです。もしそれを認めたとしても、
出来事が起こってしまった辛さは変わりませんが、少なくとも、これまでのように自分の過去の行いを悔いて、
自分の無能さ、甘さ、弱さなどを責める日々を送り続ける必要は無くなるかもしれません。
参考文献:P.A,リーシック他 2019 トラウマへの認知処理療法 治療者のための包括手引き 創元社
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